ドイツ移住までの歩き方

人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。

大切にしていた言葉を忘れ、また思い出す

 

みなさん、おはこんにちは。

最近気持ちのよい日が続いており、そんな日はもちろん散歩にでかけたく

なるもの。

みなさまいかがお過ごしだろうか。

 

わたしは先月から、また新たな語学学校のクラスがはじまり、少人数で、

だれひとりとして、同じ国のひとはおらず、和気あいあいとした感じで、

毎日の学校が最近の楽しみのひとつだ。

世界共通言語は、なぜドイツ語ではなく英語なのだろうとかすかな疑問を

抱きながらも、あやふなな英語と習いたてのドイツ語という

切れるかも怪しい二刀流をなんとか使いながら、同クラスの友だちと

かけがえのない時間を過ごす日々である。

そして、言葉が完ぺきに通じ会えなくても、お互い寄り添いあう心さえあれば

なにも問題はないと思うこの頃だ。

 

さて、今回はわたしが大切にしていたであろうある言葉があるのだが、

それをつい最近まで、熟睡できず朝がツラい日々をこの数か月送り、

日中のひどい眠気と闘っていた。

そのおかげで、すっかりその言葉を忘れていたのだ。

ひとは、気持ちのやじるしが下向きに向いていると、その分いつも以上に

自分の見える景色は限られるということを実感する。

とはいえど、そんな毎日をいい気分で過ごすのはまだまだ難しい。

人生に波があるように、自分の心にも波があって当然だと思って生きている、

このごろである。

 

「きみがきた場所」

さて、すっかりここまでだらだらと書いてしまったが、ストレスフルになっていた

自分に希望をもたらしてくれたのは、言うまでもない喜多川泰先生だった。

喜多川先生は、これまで数多くの作品を世に送り届けているが、

その作品群のなかで、特に気に入っているのが「きみが来た場所」という作品である。

 

 

「秀平」という主人公は、このまま働けば安泰というサラリーマン生活を捨て、

一念発起してこれまでにない新しい形態の塾をはじめる。

それから、あることをきっかけに自分が生まれるずっと前のできごとを

身をもって体感することになるのだが、、、

 

人との出会いは幸せになるためのいちばんの近道

 

「すべては出会いによって実現されていく。自分がなにをするかよりも、

だれと出会うか。そして、その出会いは、自分がいまできることを精一杯

やっていくなかで自然とやってくる。同じ志を持ったもの同士は惹かれあって

出会うことになる。そして、そうやって出会ったもの同士が同じ方向を向くとき、

1+1は2ではなくなる。場合によっては10になることだってある。」

 

こちらは作中にでてくる言葉を引用した。

このことばを大切にしたいと思って、ドイツ旅立ち前にある友人に手紙に添えた。

だが、前述したようにすっかり頭の隅にも置いておけず、抜けていたのだ。

そんなあるとき、これまでストックしていたわたしのアーカイブを見ていると、

その友人に送った手紙の下書きが出てきた。

ハッとさせられたたともに、ちょっと内気気味になっていた自分の心の扉が

少しずつ開いていく瞬間でもあった。

そして、忘れていた自分を情けないとも思った。

人との出会いは、自分にすべてをもたらしてくれるとともに、そのひとのもつ

才能を開花させてくれるのもまた、それにふさわしい人との出会いによって

もたらされる。

 

未来への不安ではなく、"いま"この時を生きる!

つい、未来への不安ばかりに時間を使い、いまを幸せに生きるすべを

知っていたはずなのに、すっかりそれを忘れてしまっている。

いま生きている人間にあるのは、未来でも過去でもない。

“いま”この時間だけだ。だからこそ、自分の内側にある欲望というものを

表にだしていくことはとても大切なことだと思う。

そのきっかけになるのは、言うまでもないたくさんのひととの出会いでは

ないだろうか。

 

わたしもドイツに来て、これまでの投稿でも何度か紹介してきたが、

ドイツでのたくさんのひととの出会いによって、良い刺激を受け続け

それだけで幸せを実感する日々である。

そして、まだ見える形ではないものの、矢印が上向きに向き続けているのでは

ないかと感じる、このごろである。

 

今日も最後まで読んでくれてありがとう。

それではまた。